量産型エヴァンゲリオン
第拾参話「邂逅」
夜。コンフォート17マンションの一室にカヲルはいた。ベッドに身を投げ出し、夜空を瞬く星々にも興味を示さずにきつく瞼を閉じている。眠っているわけではない。身体に蓄積された疲労が彼の意識を繋ぎ止めていた。
今日は期末テスト最終日で学校は午前で終わったのだが、昼食を摂る暇もなく彼らはNERVに呼び出され、その後は日暮れまでテスト。結局、食事らしい食事を口に出来たのは家に帰ってきてからのことだった。
自分は疲れている。その事実にカヲルは驚きを隠せなかった。もしかすれば今までもそういう状態に陥ったことはあったかもしれないが、少なくとも以前はそうではなかった。感じていたのは精神的な意味合いでの疲労であり、肉体はどれほど酷使しても悲鳴をあげることはなかった。
それがここにきて変わりつつある。それとも、最初から違っていたのだろうか。
カヲルは首を曲げてベッドの左方に位置する机を見た。机の上には一枚の書類が置かれている。それが、NERVを出る際にマヤから間違いはないか確認しておけと渡された少年の経歴であることは間違いなかった。明日には学校へ提出しなければならない己の過去をカヲルは暗記するほど何度も読んだ。
それはもちろんカヲルの歩んできた人生などではなかった。生まれながらにしてゼーレに拘束され、苦痛と嫌悪に彩られた記憶しか持たぬカヲルには歩めるはずもない、一人の人間の人生だった。
ぼんやりと机を見つめていたカヲルは僅かに表情を翳らせた。確認しておくも何も、自分は何も知らないのだからどうしようもない。この数ヶ月の間、そういう話題が出る度に上手くはぐらかし、それが出来ない時は適当に相槌を打って誤魔化してきた。皆を騙して。そのことが悲しかった。
本来の渚カヲル少年は、境遇こそ特殊であるものの、決して異常な人生を歩んできたわけではないようだった。今から14年前、彼は日独ハーフの父親と日本人の母親の間に生まれた。父親の名はキール・ローレンツ、母親の名は……、
「渚ナオコ」
彼女もまた、今ここにいるカヲルにとってはキール同様、赤の他人に他ならない。以前の世界でも出会わなかった。だが本来ならば何も感じないはずのその名に、この時カヲルは確かに興味を引かれていた。
それは些細な変化だった。同時に全てが始まる前兆でもあった。そのことにカヲルはまだ気付いていなかった。
「どんな人だったんだろう」
書面には2010年に事故死とあるだけで詳しくは書かれていなかった。渚カヲルは2006年、5歳の時にナオコ方の親戚の元へ預けられているから、おそらくその訃報を知るのも遅かったはずだ。
カヲルが言うところのリリンである彼は、果たしてどのような気持ちでその知らせを聞いたのだろうか。
「リリスではない、ヒトの母親か……」
見も知らぬ母、そしてもう一人の自分に思いを馳せながらカヲルはいつしか目を閉じていた。
「MAGIシステム、3基とも自己診断モードに入りました」
「異常は?」
「ありません、全て正常です」
「では以上で第127次定期検診を終了とします」
半日に渡る検診を終えたキョウコの顔には異常がなかったことへの安堵よりも疲れの方が色濃く出ていた。これは技術部の人間にしか分からないことだが、MAGIの扱いはエヴァに負けず劣らず複雑でありまた難しくもあった。
部下たちが立ち去り、閑散とした発令所に一人でいると、強ばった身体から余分な力が抜けていくのが分かった。脱力して椅子に凭れかかるキョウコ。やり遂げたという達成感を感じるのはいつもこんな時だった。
「お疲れさま」
コーヒーを片手にやって来たユイはそう言ってキョウコを労った。だがそのユイとて検診に携わった人間である。やはり精彩さを欠いた彼女が心配なのか、ゲンドウが付き添うようにして立っていた。
「あなたたちはいつも仲が良くていいわね」
「ええ、それはもう」
キョウコは薄く笑うとコーヒーを一口啜った。熱い苦味が口内に広がり、拡散していた意識が少しずつ戻ってくる。湯気に曇った眼鏡を外すとクリアな視界の中に気遣うような親友とその恋人の顔を見つけた。
「MAGI、元気で良かったね」
ユイが躊躇いがちにそう言った時、キョウコは自分の内の達成感が風船のように萎んでいくのを感じた。視線は自然と下がり、手元のマグカップを見つめる格好になる。コーヒーには波紋が浮かんでいた。
「……本当に」
司令塔前方の総合分析所に安置された3基のMAGIに人格移植OSが搭載されているということは、NERVに務める人間ならば知らない者は無いと言われるほどに有名な話である。しかしそこに移植された人格について詳しく知っている者はというと、思いのほか少ない。
キョウコには在りし日の面影を簡単に思い描くことが出来た。真白な白衣に身を包んだ痩身、颯爽とした立ち姿。華麗な立居振舞に強く憧れ、自分もそうありたいと願ったのは他ならぬキョウコ自身だ。
だからこそ彼女の死の真相を知った時はショックだった。どうしていいのか分からずに泣き続ける日々がしばらく続いた。そして慟哭が治まった時、キョウコの胸にはある忽然とした決意が生まれていた。
ちらりと腕時計に目を落とす。そろそろ時間だ。彼に会わなければならない。いつもなら重苦しい気分になるところだが、今は違う。早く会いたくて堪らない。今日ばっかりは。
キョウコと付き合いの長いユイとゲンドウは全てとは言わないものの概ねの事情は察している。だからキョウコが暗い表情で黙り込んでも、突然きびきびとした動作で立ち上がるのを見ても、何も言わなかった。
「ごめん、この後ちょっと司令に呼ばれてるから」
「ああ、うん。頑張ってね」
お疲れさま、と囁くように言うとキョウコは足早に発令所を後にした。
どこからか波音が聞こえている。ああ、またあの夢だ、とカヲルは思った。でもどうしてだろう。今日は頭は痛くならなかったはずなのに。ああでもエヴァとシンクロする時に少し感じたかもしれないし何故かエヴァに乗った時にはよく頭が痛くなるからやっぱりそうなのかもしれない。
重い瞼を何とか上げると、やはり想像した通りの光景が広がっていた。風に乗って、真紅の海から錆びた血の匂いが香ってくる。それはむせ返るような原始の匂いだ。
砂浜に佇んでいるであろう少年の姿を探す。彼はすぐに見つかった。波打ち際、靴が濡れるか濡れないかというところにぽつんと立ち尽くしている。こうして見てみると、改めてその体の細さが目を引いた。
「シンジくん」
カヲルは少年の名を呼んだ。少年は振り返らない。カヲルは一歩、また一歩と近付いていく。
「ねえ、僕だよ。シンジくん」
無駄だと分かっていてもなお声をかけずにはいられない。
「顔が見たいんだ、もう一度」
いつの間にか夢中で駆け、手を伸ばせばその体に触れられるところまで近付いていた。
「声だって聞きたい。ずっと会いたかったんだ」
肩に手を伸ばそうとして躊躇する。今まで何度も試してその度に失敗し続けてきたからだ。いつも肩に触れる寸前に目が覚めてしまった。手を伸ばせばそこで全てが終わってしまいそうな予感がしていた。
だけど――。
「シンジくん、僕は向こうで上手くやってるよ。リリスとの約束通り、君のために」
衝動に流されるままにカヲルは手を伸ばしていた。もう何でも構わなかった。目が覚めたっていい。このまま彼の背中を眺め続けているよりかはずっといい。夢だとか現実だとか、もうそんなことは関係なかった。
そしてカヲルは柔らかいシャツの感触を掌に感じた。暗転するはずの世界は色鮮やかなまま、海は途絶えることなく波音を刻んでいる。カヲルが呆気に取られていると、掴んだ肩が突然小刻みに震え始めた。
「くっ…ふふ…ふはは……ははははっ」
カヲルは咄嗟に手を引いた。少年は身を折り曲げるようにして笑っている。その低い声はカヲルの知るシンジのものではなかった。言葉を失うカヲルをよそに、少年の哄笑はひときわ大きくなっていく。
「こんなに、上手くいくとは…ははっ…思わなかった」
息も絶え絶えになりながら少年は言った。いくらか落ち着いてきたその声が誰のものであるかに気付き、カヲルの表情が凍りつく。そんな馬鹿な。その声は、色を失っていくその髪は、抜けるように白いその肌は。
「……僕?」
浅い呼吸を繰り返していた少年が振り返る。
「そうだよ」
渚カヲルの顔を可笑しそうに歪めて。
「では、明日のテストはこのように」
「ああ、問題ない」
それまで沈黙してキョウコの説明に耳を傾けていたキール・ローレンツは、言葉少なに肯定の意を表した。
NERVを束ねる総司令官である彼。そしてここは彼専用の執務室。広大なスペースを割いているというのに置いてあるのはいま彼が座るその執務机だけ。机の正面に立つキョウコはノンフレームの眼鏡を外す。
仕事の話は終わった。眼鏡を外したのはその合図でもある。NERV技術部部長としてのキョウコは彼に対して充分な敬意を払って接していた。だが一人の女になった今、その瞳からは見る見るうちに従順さが失われていく。
赤い口紅の両端をつりあげる頃には、キョウコはすっかり態度を豹変させていた。
「今日の定期検診の結果は、もうお聞きになられました?」
NERV総司令である彼に報告がいかぬはずがない。全て分かりきった上でキョウコはそう訊ねた。
「……ああ。異常はなかったそうだな」
動揺した風もない彼の態度に心がささくれ立っていくのを感じる。それでも何とか平然を保てた自分をキョウコは褒めてやりたいと思った。冷静さを欠くわけにはいかなかった。冷静、かつ的確に、彼の傷をえぐることだけを考えなければ。
キョウコはひっそりと彼に対して最も効果的であろう言葉を口にした。
「良かったですね。奥様、無事で」
キールが組んでいた腕を解く。バイザーに隠された瞳が瞬くのをキョウコは確かに見た気がした。彼の心は震えている。そう直感した時、彼女はその口元に酷薄な笑みを浮かべていた。元々顔立ちがはっきりしている彼女であるから、そんな風に笑うとかなり凄みがあった。
「私、この時期になると思い出すんです。奥様のこと」
キョウコは陶然と思い出を語った。キールが手を白くなるほど握り締めているのを横目で確認しながら、少しでも彼を傷付けるようにと過去を懐かしむような表情を浮かべることすらして話し続けた。
「司令も大変でしたよね。妹さんに続いて奥様まで亡くし――ッ」
その瞬間、勢い良く伸びた腕がキョウコの胸倉を掴み上げた。つま先が床から離れ、どこにそんな力があるのかと疑いたくなるほど力強いその腕は、白衣をぎちぎちと絞り上げ、彼女の息を詰まらせる。
「…あ……ううっ……」
「余計なことは喋らんことだ。君にはまだ働いてもらわねば困るからな」
寒気がするほど冷たい声でキールは言い、突き飛ばすようにキョウコを離した。キョウコは床に這いつくばり、噎せながら懸命に酸素を取り込む。その瞳には生理的な涙が浮かんでいた。
零れ落ちた雫が床に幾つもの染みを作っていく。それでも、頬に伝わるそれを乱暴に拭うことが出来たのは、彼女の自尊心が人一倍強いものだったからに他ならなかった。
「……な、によ……痛い所つかれて怒ってるだけじゃないっ」
目の前の男の顔をキョウコは涙ぐんだ目で強く睨みつけた。一度くずれ始めた理性が完全に崩壊するのはすぐだった。もともと今日は危うかったのだ。もはや冷静でなどいられない。激情が彼女を突き動かしていた。
「全部あんたが悪いくせに……あんたがナオコさんを殺したんじゃないの!」
「口を慎みたまえ、惣流博士」
「あんたが、あんたが悪いのよ……あんたがっ」
「黙れ。命が惜しければな」
キールは表情を変えぬまま、キョウコの額に懐から出した拳銃の銃口を当てた。
「くやしい……あんなに良い人だったのに……」
キョウコは唇をきつく噛み、込み上げる嗚咽を殺そうとしたが、できなかった。唇から血が流れ、咽喉が枯れても、彼女は床に額を押し付けたまま啜り泣き続けた。キールは微動だにせずにそんな彼女を見下ろしていた。
「こうしていると何だか鏡を見ているような気分になるね」
潮風に銀髪をなびかせて少年は言った。カヲルは何も言えなかった。少年の言う通り、向かい合う彼らはまるで双子のように全く同じ姿かたちをしていた。違うことといえば、少年は笑顔を浮かべているのに対して、カヲルは驚愕に目を見開いていることくらいだった。
「ふぅん、僕は驚いた時、こんな顔をしていたのか」
少年は目を猫のように細めるとカヲルの顔をまじまじと見た。その双眸は全てを見透かすような赤。思わず一歩退きかけたカヲルの腕を、少年のひんやりとした手が捉えた。
「逃げないでよ。せっかく会えたんだ」
「きみは……?」
波音にかき消されてしまうほどに弱々しいカヲルの呟きを、少年は聞き取ったようだった。彼は一瞬の間、何事かを考えるような仕草を見せたが、やがてくすりと含み笑いを洩らした。
「僕は誰かって?駄目だよ、それくらい自分で考えてくれないと」
困惑するカヲルの肩をぽんと叩いて少年は言った。
「大丈夫、きっとすぐに分かるよ。君になら」
その時に少年が見せた笑顔は、何故かは分からないがカヲルには薄ら寒く感じられた。おもわず肩に置かれた手を振り払ってしまう。少年は気を悪くした様子もなく、自分から後ずさるカヲルに手を振った。
「次に会う時にはもっとゆっくり話をしようね」
寄せては返す波のように少年の声はカヲルの頭に滑り込む。
「その時には、僕も完全に覚醒できてたらいいな」
世界が暗転する直前、少年はトーンを落とした声でそんなことを言った。
「NERV最高にして最大の権限をもつ総司令官を罵倒とは、あなたにしては浅はかだったね」
副司令官執務室のソファーに深々と腰かけた日向は隣りで身を震わせるキョウコを一瞥した。
「本来なら懲罰処分を受けても不思議じゃない。軽率な行動は慎むべきだ」
「……もういやよ、もう……」
普段からは想像もつかぬ弱々しいキョウコの声音に、彼女がどれほど弱り果てているかを改めて知った日向は一変して優しく語りかける。
「耐えるんだ。まだ時期じゃない。あなたも分かっているだろう?」
「……助けて、ナオコさん……」
いくら宥めてもキョウコはうわ言のように故人の名を呼び続けるだけだった。その瞳からは正気の光が遠退きつつある。このままでは精神が壊れるのも時間の問題かもしれない。
日向は舌打ちして自分が取るべき行動を模索した。答えは比較的すぐ弾き出せた。躊躇いは無かった。彼は強引に彼女の顔を上向かせると、血の滲む唇を自らのそれで塞いだ。
それは愛情など入り込む余地もない、あまりにも計算しつくされたキスだった。だが少なくともキョウコの意識を呼び戻すということに関しては最も効果的なキスでもあった。
日向の思惑通り、キョウコはすぐに正気を取り戻した。驚いたように目を見開き、そして不快げに眉を顰める。日向は抵抗をものともせずに彼女を抱き締め、その耳元に今まで彼女のそれと触れ合わせていた唇を寄せた。
「惣流さん、僕らは共犯者なんだ。どちらが欠けてもいけない。それでは僕らの目的は果たせなくなってしまう」
口早にそういう彼は真剣そのものの瞳をしていた。
「僕にはまだあなたが必要なんだ」
真摯な響きを秘めたその言葉が耳に吹き込まれた時、彼女は観念したようにその身体から力を抜いた。
「あーあ、今日もまた学校が終わったらNERVに直行かぁ」
蒸し暑さを感じさせる朝日の下、学校へ向かう道中のマナの話題は、今日も変わらずにNERVでテストがあること、それに対する不満うんぬんについてに集約されていた。
「空はこんなに晴れているっていうのに、私の心は土砂降りだよ」
こういう話の時、カヲルは滅多に口を挟まない。口を挟めばややこしくなることを知っているからだ。だから目的地に到着するまでマナは延々と一人喋りを続けることになるのだが、今日はいつもとは少し違った展開を見せた。
「霧島、俺は君のためになら喜んで傘になろう」
「馬鹿。そういう問題じゃねぇだろ」
ペシッとケンスケがムサシの頭をはたく音がした。2人とはさっきの曲がり角でたまたま合流したのだ。ムサシはマナの隣りをしっかりとキープしており、ケンスケは彼の後ろを歩いている。
「ムサシくんって意外と詩人なのね。知らなかったな」
「意外とってのが引っかかるけど、まあそうだな」
「分かった。好きな女の子にもそうやってアタックしてるんでしょ」
「え……いや、ていうか今すぐ目の前に」
「そっかそっか。青春してるんだね。男の子だもんね」
微妙に噛み合っていないそんな2人の会話をケンスケは呆れた表情で聞いていた。霧島は鈍感でムサシは馬鹿、案外こいつらお似合いなんじゃねぇのなどと思っていることは明らかだった。
「ったく呑気なもんだよな、いつ死ぬか分からないこのご時世に」
「まぁ緊張してばかりだと疲れるからね。仕方ないさ」
ケンスケの隣りを歩きながらカヲルは笑った。ケンスケが怪訝そうに顔を覗き込んできた。
「お前、何かあったか?」
カヲルは何故そんなことを言われたのか分からずに、ぼんやりと眼鏡の縁を目で追った。
「なんか変だよ、今日のお前。表情が乏しいっていうかさ」
「そんなことないよ」
「ほらそれ、その笑顔が変なんだって」
カヲルは両手を頬に触れさせた。笑ってみる。頬が引き攣れたようにしか動かなかった。
「言いたくないんなら無理には聞かないけど、あんまり一人で思い悩みすぎるなよな」
そう言って笑ったケンスケが一瞬、夢の中の少年のように見えて、カヲルは思わず身を引いた。
素肌に触れる硬いシートの感触は異質で、すぐいつものようにシンクロに集中、というわけにはいかなかった。両手はインダクションレバーに添えたまま、少しでも落ち着けるポイントを探して身じろぎを繰り返すという似たり寄ったりの行動に出たチルドレンたちに、見かねたマヤが通信を入れる。
「最初は慣れないと思うけど、大丈夫、すぐに気にならなくなるわ」
その言葉が効いたのか、まもなく3人のシンクロ率は安定し始めた。カヲルはシュミレーションプラグの中でいつもと違う感覚に身を委ねながら、テスト開始を告げるユイの声を聞いていた。
今日のテストはいつもとは違い、チルドレンはプラグスーツを着用していない。人前で肌を晒すということで、当初マナやマユミは抵抗があったようだが、映像は一切モニターしないとキョウコに説明されるに至って納得したらしい。
彼らは17回に及ぶボディクリーニングを受けてここにいる。正直、プラグスーツの補助なしにパイロットの肉体から直接ハーモニクスを行うことがそれほどまでに有益な結果をもたらすとはカヲルは思っていない。表向きにはオートパイロットのための実験と銘打たれてはいるものの、おそらく何か裏があるはずだ。例えば、ダミープラグだとか。
「シュミレーションプラグ、MAGIの制御下に入りました」
一方のテストは滞ることもなく進み、模擬体を使っての接続実験への移行もスムーズに済んだ。実際に模擬体と接続されていたのはマユミであるが、カヲルにもここまでは何の異常もなかったように思える。
異常が発生したのは接続実験開始から180秒後。全くの突然に警報が鳴り響き、何が起こったのかも分からぬままにカヲルたちの乗るシュミレーションプラグはジオフロント内の地底湖へと射出された。
「まさか……使徒?」
カヲルの嫌な予感は的中していた。
「今回の使徒は細菌サイズのマイクロマシンであり、それぞれの個体が一ヶ所に集まることで知能回路を形成し、秒単位で進化し続けているものと考えられます」
NERVは第87タンパク壁の侵食部より爆発的スピードで増殖した何かを第十一使徒と認識した。使徒は壁づたいに進行し、シグマユニットを通じて実験中にあった模擬体に接触、この時点でキョウコはチルドレンたちの乗ったシュミレーションプラグを本部外に緊急射出させるという判断に出た。
その後、使徒は保安部のメインバンクに侵入し、ついにはその触手をMAGIへと伸ばした。キールの命令によって3機のエヴァが地上に避難した時には、既にメルキオールが使徒の手に落ちていた。敵に回ったメルキオールはすぐさまバルタザールへのハッキングを始め、キョウコはMAGIのロジックモードを変更することでこれに応戦した。
迅速に開かれた緊急対策会議への出席者は司令のキール、副司令の日向、技術部主任のキョウコ、作戦部長のマヤ、そしてオペレーターのユイとゲンドウという僅か6人だった。
「使徒ごとMAGIを破壊することは出来ませんか?」
マヤは数ある選択肢の中で最も安全な方法を提案した。だがこの案が可決されるとはマヤ自身思っていなかった。予想した通り、キョウコ、そしてキールの強い反対を受け、この案は却下された。
続いてキョウコが提案したのは唯一手元に残ったカスパーを通して使徒に逆ハックをしかけ、自滅促進プログラムを送り込むというものだった。確かに進化をし続ける使徒にとってこれほど効果的な作戦はない。しかしその分、人類が背負うリスクも大きかった。
「そのプログラムは間に合うのだろうな?」
キョウコは挑むような眼差しでキールを見据えた。日向がそんな彼女をじっと見つめる。
「間に合わせます。何があっても」
カスパーの内部に潜り込んだキョウコは壁中に貼られた悪戯書きにそっと手を這わせた。背後でユイがめくるめく裏コードに歓声を上げている。少し癖のある字が懐かしかった。
「ナオコさん、あなたは必ず守ります」
キョウコは着々と対使徒用のプログラミングをこなしていった。絶えず聞こえてくるキータッチ音から察するにユイの方も順調なようだ。技術のないマヤには器具を取るなどの肉体的な手伝いをしてもらっていた。
「先輩にとってMAGIはとても大切なものなんですね」
静かに話しかけられて、動揺しなかったといえば嘘になる。
「かけがえのないものだわ。ナオコさんはもうここにしか残っていないから」
「ナオコさんってカヲル君のお母さんのことですよね?」
キョウコは手を止めることなく頷いた。
「事故死したって聞きましたけど……」
4年前に入所したマヤは被保護者の母親について噂でしか知らない。ならばその噂はどうだったかと言うと、司令の妻が事故死したというのは有名な話で、誰もが惜しい人を亡くしてしまったと嘆いていたらしい。
「本当は事故なんかじゃないのよ」
キョウコは自分でも驚くほどあっさりとそう言っていた。マヤが息を呑む気配が伝わってくる。
「それって……」
「自殺だったわ。誰も知らないことだけど」
結論から言えば、人類はまたも生き延びることが出来たというより他はない。
MAGIの自立自爆が決議される寸前、これはバルタザールに引き続きカスパーが使徒に乗っ取られるということを指すのだが、およそ一秒前に自滅促進プログラムは作動した。その結果、第十一使徒は殲滅され、NERVは爆発することなく今もここに存在している。
「また逢いましょうね、ナオコさん」
床に沈み込んでいくカスパー本体に向かってキョウコは囁いた。使徒を倒したのは自分ではなく、女としてのナオコの意思なのだと彼女は信じて疑わないでいた。
「2時間、か」
「2時間、ですね」
「もう何でも良いから誰か助けてぇ――!」
一方、射出されたシュミレーションプラグは今だに地底湖を漂い続けていた。
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